BANANA-SAKANA NOTEBOOK
アメリカ文学の現在メモだったり
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大人になったアウトロー
Mickey Rourke: Wrestling with DemonsMickey Rourke: Wrestling with Demons
Sandro Monetti

「レスラー」でにわかに全世界の注目を浴び、あちこちのインタビューに応じているミッキー・ロークだが、20年間の空白についてはどの記事もたいしたことを教えてくれない。と思っていたら、新しい伝記が出版されるようだ。9月刊行予定。9月? えらい先の話なのにもう予約受付?

まあ、出て然るべき本だろう。彼の人生、格好のスター本ネタだもの。この人の場合、年齢の重ね方にメンタルにもフィジックにも尋常ならざるものを感じる。自らの顔や体を改造してまでサバイバルしたという点から言っても、他の同世代俳優には例をみない。

以下、個人的関心から、雑誌記事とあやふやな記憶を頼りにおさらいメモ。

ミッキー・ローク。本名フィリップ・アンドレ・ローク・ジュニア。ニューヨーク州スケネクタディ生まれ。生年は1952年なのか1956年なのか、定かではない。2008年のニューヨークタイムズ取材記事にて「現在56歳」と言っているから、1952年が正しいのだろう。

1958年、少年は母親に連れられ、ニューヨーク州から新しい土地へ越した。母と幼い弟と妹との4人暮らしがマイアミで始まった。まもなく母親は新しい父を連れてくる。新しい父は第二次世界大戦を経験した退役軍人にしてマイアミコップ、おまけに5人のコブつきだった。にわかに子どもが8人、さらに一人産まれて増えての大家族が一つ屋根の下に暮らすことに。それでなくともドヤ街みたいな黒人居住エリアで、アイリッシュ系の白い肌をもつ弱々しい少年はいじめられた。タフガイの継父からはスパルタ教育を受けた。

「継父には暴力をふるわれてばかりだった」と後年彼は回想している。「2歳年下の弟を守るのに必死だった」不遇の少年時代は、いわば憂いと翳りを含む彼の「ウリ」だった。しかし、当の継父(現在マイアミビーチで悠々自適の隠居生活を送っている)によれば、「なんだってワシがあの子に暴力をふるわにゃならんのだ。弟の方は身丈夫だったぞ。守らなければならなかったのはむしろ彼の方だった」という。「それだからボクシング・ジムに通わせたんだぞ、言っとくが」

少年は新しい環境にも、新しい父にも、新しい家族にもなじめなかった。タフになりたい。心身ともに。だが現実は、少年同士の喧嘩にも尻尾を巻いて逃げ帰る自分しかいない。熱中したボクシングだってものにならない。心の葛藤はその後の彼に大きなトラウマを残すとともに、自己否定と理想とのギャップを埋め合わせようという破滅型ペルソナを形成することになる。

高校を卒業後、彼は家族と自身から逃げるようにして単身ニューヨークへ。養成学校に通い、映画俳優を目指す。チャンスは8年後に訪れた。1979年、ほんのちょい役だが映画に出演することができた。その後、とんとん拍子でインディー系映画への出演が続いた。「天国の門」「白いドレスの女」「ダイナー」「ランブルフィッシュ」……。どれも脇役としての出演だったが、彼のミステリアスかつナイーヴな容貌ないし演技は批評家や観客の目を俄然ひきつけた。

そして念願の主演作「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」(1985)。「天国の門」の大失敗でハリウッドから放擲されたマイケル・チミノの監督作品だった。チミノが再起を賭けた作品だったが興行成績も世評も今ひとつ。一方、映画俳優としての彼のキャリアは着実に積み上がっていった。精神病者の犯罪をスリリングに描いたアラン・パーカー監督「エンゼル・ハート」、神とのつながりをサイキックになぞった「死にゆく者への祈り」、チャールズ・ブコウスキー原作、フェイ・ダナウェイ共演で「バーフライ」。3本とも1987年、同じ年に公開された映画である。

わずか数年の間に、彼は的確なアンチハリウッド映画において的確なキャラクターをつくりあげすぎたのかもしれない。せっかく俳優として「ロバート・デ・ニーロの器」とまで持ちあげられ、役者としての地歩を築いていたのに、彼の内部では精神と肉体が乖離しはじめていた。おそらくは、いや断言したいところだが、究極のエンターテインメント「ナインハーフ」(1985)に主演さえしなければ、彼の役者人生はがらりと様相を変えていたのではないだろうか。「ナインハーフ」は興行的に成功した映画(とりわけフランスで大喝采を浴びたそうだ)だが、彼には「ユーロトラッシュ」だのセクシー俳優だのという汚名が以降つきまとう。「エンゼル・ハート」「死にゆく者への祈り」「バーフライ」と、確実に俳優としてのポテンシャルを顕したにもかかわらず、「ナインハーフ」という駄作一本で一笑に付されることになったのだ。

挫折はさらに続いた。「ホームボーイ」(1988)の失敗である。彼自身が少年時代の夢であったボクサーを主人公に脚本を書き、プロデュースし、主演した映画だった。ところが当作は映画界から総スカンを食らい、劇場公開ならず。ヤケを起こした彼は公私ともども問題を起こすようになり、役者としてのキャリアのみならず、人間としての信頼をも失墜していく。あれよあれよというまの転落だった。

負のスパイラルは止まらなかった。80年代も暮れ、90年代に突入すると、彼に望ましい仕事はこなくなった。1991年には「ワースト・アクター」の悪名までいただいた。彼はどん底に落ちきった俳優業に見切りをつけ、マイアミに舞い戻ってプロボクサーに転向する。ボクサーになることは少年時代の夢だった。心身ともにタフガイになるのだ。俺はセクシー俳優なんかじゃない。精神病者でもないし、SMでもない。タフな男なんだ。1991年から数年、彼は我を忘れてボクシングに没頭する。プロボクサーとしての成績はかんばしくなかった。なにしろすでに40代だ。20代を相手に闘うなんて、そりゃ無茶というものだろう。それでも彼は顔面が変形するほどリングに上がり続けた。同時並行してB級映画(主に劇場未公開)にもちょこちょこ出ていたが、彼の俳優としての90年代はほぼ空白である。

その間、妻への暴力事件やら酔っぱらい運転やらで逮捕されては、変わりはてた容貌で世間を驚かせていた。それもまあ、あくまで週刊誌ネタでのことであり、日本ではすっかり忘れられた存在だった。プロボクサーに転向した時点で、「この人はいったい何をやりたいんだろう」という冷ややかな目を向けられていたのも昔話。元を返せば、彼はハリウッド受けする俳優ではなかったし、あくまでインディペンダントな映画で生かされる俳優だった。「ナインハーフ」だってフランス経由でブレイクした映画であって、かつて女性ファンの心をわしづかみにしたあのセクシー男優がなんだってボクシングを?てな話だったと思う。(ボクシングで猫パンチと揶揄されていたことも、二度離婚したことも知らなかったが。)

いずれにしろ、この時点で、彼は「終わって」いた。

「もっと自分に学があれば」と、現在の彼は言う。「あの頃、傲慢になることもなく、自らのキャリアを無にすることもなかったと思う。あの頃はとにかく自分にかかずりあってくる人間全員に、あたりかまわずキレまくっていた。二度と同じ過ちは犯したくないですね。役者というのは、いつ何時おちぶれるとも知れない立ち位置にあるものだから」

ボクシングで顔の骨をぼきぼきに骨折し、整形手術で崩れた顔。不摂生で崩れた体型。タフガイになるためにわざとそうしたのだという説もあるが、ボクシングを諦め、映画界に戻ろうとしても俳優としての仕事は完膚なきまでになかった。家族も友人もいない。コンビニでは顔を隠した。うつで自殺も考えた。

そんな時、ヴィンセント・ギャロが「昔からファンだったんです」と映画出演を依頼してきた。「バッファロー’66」(1998)。インディー映画の極みだ。やがて、自殺を思いとどまらせてくれた弟が癌で死んだ。すでに50代にさしかかっていた。心身ともに別人と化した彼は、どんな役柄であっても映画とあらば出演し、演技への執念を燃やしつづけた。

そして10年後、これまたインディー映画の極み低予算の「レスラー」主演。ギャラはほとんどなし。本来ならニコラス・ケイジ *が主演するはずだった高額映画を、監督が低予算ありきで体をはったという。彼は監督の熱意に応えた。主題歌は友人のブルース・スプリングスティーンに電話で頼みこんだ。「金はないんだけど、ここはひとつ頼むよ」。彼は当作品でアカデミー賞最優秀男優賞最有力候補にまでのぼりつめる。大のハリウッド嫌いがインタビュー仕事を引き受ける。オスカー賞授賞式、どんなときにもそばにいてくれた愛犬の死を胸に、仲間たちに囲まれ、やっと大人になった一人の男がそこにいた。

参考記事
New York Times Magazine 11/30/2008

*ニコラス・ケイジは「レスラー」主演を断わったそうだ。「レスラー役はステロイドで体をつくらなきゃならないし、僕はクスリはやらないのでね」だの、「どうせ金は出ないんだろうし」だの言って。これ、傲慢に他ならないよなあ。そういうあなただって、昔は大根役者ないし格安俳優だったんじゃないのと言いたい。人間、傲慢になっちゃいけませんね。

おまけ。

Mickey Rourke: High And LowMickey Rourke: High And Low
Christopher Heard

2006年にも伝記が出ている。「シン・シティ」(2005)で復活の兆しを見せた時に出版されたものらしい。

表紙写真を見比べるだけで、いかに変貌したかがわかる。今となっては「現在のミッキーの方が凄みがあって好き」という意見も出てくるんだろうな。人って都合がいいから。日本での人気は地に落ちたものの、フランスではミッキー・ローク本が依然たくさん出ているようだ。フランス人好みというのも、我々日本人には今ひとつピンとこない。日本にはそこまで熱狂的なファンは根づいていない気がする。個人的には、「ランブルフィッシュ」(1983)で主演マット・ディロンの存在を打ち消すほどのインパクトを見せつけられて「何この人。誰、誰」みたいな興味から始まったのだったが(デニス・ホッパーも出ていた)、「ナインハーフ」ですっかり興味を失った。フランスでは逆現象が起きていて、人気沸騰したという話が信じられないくらいだ。本来なら、ブルース・ウィリスが「シックスセンス」で演じた役などは、ミッキー・ロークが演って然るべきだったと思うんだけど。今となってはすべてが遅いが。
『ライ麦』続編について
60 Years Later: Coming Through the Rye
60 Years Later: Coming Through the Rye
John David California

5月末、サリンジャーが『ライ麦畑をつかまえて』の続編らしき(?)作品出版を差し止めようと提訴している、とのニュースが世界を駆け巡った。版元はスウェーデンの出版社、作者名はJ.D.カリフォルニア。そしてタイトルは"60 Years Later: Coming Through the Rye"。こりゃジョークだろうと誰もが思う。ところが、ニューヨークタイムズの簡単なニュース記事によると、筆者のJ.D.カリフォルニアはいたって真面目に「偉大なるサリンジャーへの敬意の表明として書かせていただいた」と応じている。話の中身はというと、76歳のMr.Cなる主人公が老人ホームから脱走し、ニューヨーク市内を彷徨う話……。いったいどういう話だ?

ロイター発のニュース記事はどれも簡単なものばかりで要領を得ない。Telegraph.co.ukによると、”60 Years Later”は4月末の段階でプルーフがすでに英国内で出まわっていたようだ。仕掛人であるスウェーデンの出版社 Nicotextというのがじつに胡散臭くて、明らかにジョーク本専門出版社。今回の”60 Years Later”出版のために急遽イギリスにWindupbird Publishing(ねじまき鳥出版?)という出版社を立ち上げたそうで、イギリスでは6月25日発売、米国では8月に発売予定という強引さ。アマゾンにはもう出ている。

作者J.D.カリフォルニアというのがこれまた胡散臭い。1976年エイプリルフール(4月1日)生まれ。スウェーデン人の母とアメリカ人の父の間に生まれ、両親が別れるまでスウェーデンで育った。執筆活動に入る前は墓掘り人、またある時はホテルや靴屋と職を転々とした経歴の持主。JDというファーストネームは本名で、ジョン・デイヴィッドといいます。姓をカリフォルニアに改めただけなんです。本当です。「パスポートをご覧になります?」Telegraph.co.ukに本人の写真が掲載されている。

版元とJ.D.カリフォルニアは「本作はまったくのオリジナル文芸作品であり、著作権侵害には値しない」と断言しているが、そうは問屋がおろさない。ジョークだろうがパロディだろうが、サリンジャー側としては断固出版を阻止する、というわけである。カリフォルニアさんとしては「敬意を表する」つもりであっても、いかんせん「悪ふざけ」にしか見えないこのいきさつ。今後の成り行きに推し量れないものがある。
「本の雑誌」にイエーツ関連記事
本の雑誌 312号
本の雑誌 312号
本の雑誌編集部

2009年6月号「三角定規うずまき号」
特集:初夏の海外文学祭り!

イエーツ『寂しさの十一のかたち』坪内祐三
リチャード・イエーツについての日本語の記事を目にするのは、ひょっとするとこれが初めてかもしれない。(正確には、知っているかぎりでは二人目)。坪内氏は1984年に短篇集『イレヴン・カインズ・オブ・ロンリネス』を読んで以来、イエーツの愛読者だったという。なんと。
当時私はサリンジャーの短篇を愛読していたが、イエーツの短篇は、サリンジャー的でありながら、サリンジャーのそれよりも、もっと辛い。

私がイエーツを知ったのは、アンドレ・デビュースを通じてだったからもっと遅い。1987年か1988年か。ちょうどヴィンテージ・コンテンポラリーから著作が再版された頃。「サリンジャーのそれよりも、もっと辛い」どころか、最悪なまでに辛い話ばかり。にもかかわらず、圧倒的な支持と崇拝を集めるカルト的な作家だった。

短篇集『イレヴン・カインズ・オブ・ロンリネス』所収の一篇はささやかながら拙訳あり*。"A Glutton for Punishment"(「敗者の二十四時間」と訳した)という、何をやってもヘマなサラリーマンがリストラされる話で、これも徹底的に救いがない。映画『レボリューショナリー・ロード』だって、きわめて短期間上映に終わったそうだけれど、あの内容だったらおよそ想像するに難くない。いくらキャスティングが豪華だからってねえ。坪内氏によれば、小説に忠実すぎるほどの映画だからこそ、「見ごたえがあった」そうだ。

ともあれ、こんな形でイエーツが取り上げられたのはちょっとしたニュース。『イレヴン・カインズ・オブ・ロンリネス』も、ぜひいい形で翻訳されるべき短篇集だと思います。『寂しさの十一のかたち』というタイトルはなかなかいいな。

Eleven Kinds of Loneliness (Vintage Classics)
Eleven Kinds of Loneliness (Vintage Classics)
Richard Yates
去年、新しく復刻版として出版されたみたいだ。所有のヴィンテージ版とだいぶ違う。

*i feel(紀伊國屋書店刊)1997年春号所収。島田絵海訳。たぶん、誰も知らないだろうなあ。
エリザベス・バーグの新作ベストセラー入り
Home Safe: A NovelHome Safe: A Novel
Elizabeth Berg

4月末に出版されたエリザベス・バーグの新作"Home Safe"が、ニューヨークタイムズのベストセラー第19位にランクイン。当人は「どうせ一瞬のことで、すぐにリストからは消えてしまうでしょう」とブログで謙遜しならがも、これまでで最高得点と喜んでいる。夫を亡くした喪失感から筆を手折ってしまう女流作家の話らしい。相変わらず多作な作家だなあ。全然追いついていないが、本作ももちろん、とりもなおさず購入。

回顧#2:「乱暴な手紙」
記事翻訳:ジェームズ・ウッズ/インタビュー「乱暴な手紙」
著者/出典:Elisa Leoneli / Imperial Press.
掲載誌:Switch Vol.5 No.6 1987 DEC.

» 特集「笑う男」ロバート・デ・ニーロ、ジェームズ・ウッズ、クリストファー・ウォーケン、ウィレム・デフォー


1987年当時の『Switch』は、サム・シェパード、ミッキー・ローク、トム・ウェイツら海外アーティストを特集することが多かった。文学関連も少しずつあって、この号にはジョン・アーヴィングのインタビューも載っている*1。編集長自らの文章もあれば、副編集長による巻末の「From Editors」という簡潔にして強い引力をもつ文章もあった。記事1つひとつの選択、企画の成り立ちに編集者たちの熱が感じられた。『Switch』は、80年代後期のサブカルチャーの一端を担うすぐれた雑誌のひとつだった。

当時私は京都に暮らしていたから首都圏中心販売の『Switch』は手に入りにくかったし、東京で何が起きているのかといった同時代性からはややもすると遅れ気味ではあったが、少なくとも、あの頃の(20代の)私個人のマニアックな嗜好と理想を見事に具現した雑誌だったといっていい。アートディレクター坂川栄治氏のページ構成がとにかく巧い。写真も記事も、レイアウトも、すばらしくセンスがいい。どんな小さな記事でも読み飛ばさず食い入るように読みふけったものだった。この号で私が訳したのはジェームズ・ウッズのインタビュー*2。『Switch』という、時代に敏感な雑誌に翻訳者として参加できたことを光栄に思う。

*1:この直後、アメリカで若い世代の文芸ブームが沸き起こり、『Switch』は俄然文学を中心に特集しはじめる。『あらかじめ失われた世代』という作家インタビューと短篇翻訳で構成された別冊も出したし、『Literary Switch』を新しく発行するようにもなった。現在の『Switch』は国内ミュージシャン、アーティストが中心。

*2:ウッズが「サルバドル〜遥かなる日々」でアカデミー賞主演男優賞にノミネートされた直後のインタビュー記事。訳すにあたってジェームズ・ウッズの出演作という出演作は全部観た。当時はインターネットもなかったし、情報収集には大変な労力を費やしたものだ。もっとも、みんながそうだったのだけど。